最近描いたモノ
村上義隆
村上義光(義日)が大塔宮の身代わりに自害した後、
子の義隆はなお追いすがる幕府軍から宮を逃がすため、一人留まり、
馬も人も構わず斬りまくって時間を稼いだ。
致命傷の矢傷を負って戦えなくなると、太刀を地に突き刺し、
立ったまま絶命した。(西源院本太平記第七巻)
平山季重
一連の平家追討戦で度々武功をあげた武士で、
後白河法皇がその功に報いて右衛門尉に任じたところ、
頼朝が「顔ハフワフワトシテ稀有ノ任官哉」と
自分に無断での受任に激怒した(『吾妻鏡』元暦二年4月15日)。
その後は許しを得て、源実朝の誕生時には鳴弦の役を仰せつかっている。
松井興長
細川忠興~綱利までの四代の藩主に仕えた名家老で、
たびたび主君に諫言を呈した。最晩年に綱利の素行に対して諫めた書状は5mに渡る。
三回忌に描かれた肖像画には、父の康之が秀吉から拝領した兜と、
家光から賜った赤と黒の縞模様の陣羽織が描かれている。
宇治川の先陣争い
『平家物語』には、上洛を目指す義経軍に属した梶原景季と佐々木高綱が、
それぞれ頼朝から賜った名馬(磨墨(スルスミ)と生月(イケヅキ))を駆って、
どちらが先に宇治川を渡って敵陣に一番乗りになるか競う場面がある。
佐々木は先行する梶原に、馬の腹帯が緩んでいると嘘の指摘をして遅らせ、
川底に張ってあった縄を切りながら進み、見事一番乗りを果たしたという。
勝海舟
彼の履歴のなかで一番の仕事は、全面戦争の回避につとめて、
これには談判相手の西郷のおかげもあるけど、江戸市民を守ったことだと思ってるので、
自分は歴史人物のなかでとても好きだ。
鬼の小十郎
片倉重綱は、伊達政宗の腹心・小十郎景綱の子。
大坂の陣で後藤又兵衛隊を破り勇名を馳せた。
所用の甲冑は、主君政宗のものと共に仙台市博物館に収蔵されている。
夜叉九郎
出羽角館の戸沢氏は、常に周辺の大族に圧迫されていたが、盛安の登場で確固たる勢力を築いた。
小田原に赴いた秀吉に謁して本領安堵を得たものの、直後に急死してしまった。
また、戸沢氏躍進の契機となった唐松野の戦いで斃れた安東愛季も、
出羽を代表する大勢力を誇った戦国大名である。
『鎌倉殿の13人』から、源義経と和田義盛
斎藤実盛
篠原の合戦において、平家方の実盛は、錦の直垂を着ることを願い出、
髭を黒く染め、若々しく装い、良き敵を求めて討死した。
その首を見た木曽義仲は、幼時にわが身を匿ってくれた恩人の実盛であったと知り、
悲しみに暮れたという(平家物語巻7「篠原」、「実盛」)。
八幡太郎
【鵯越の逆落とし】
一の谷合戦で源義経は、鵯越と呼ばれる難所を馬で駆け下って平家軍を奇襲した。
一方畠山重忠は、愛馬の三日月を労わって、背負って静々と下りて行ったという逸話がある
(源平盛衰記巻37)。
【悪源太の狒々退治】
岩屋岩蔭遺跡のある、岐阜県下呂市金山地方には、
悪源太義平が妖怪狒々を退治したという伝説が残っているので、
それをもとに漫画を描きました。なお、ツイッターで先にアップしたもの(https://twitter.com/mousou_roku/status/1480548633942818816)を、
若干の修正を加えています。
水島新司先生追悼。
【安濃津城の戦い】
関が原合戦の折、富田信高が苦戦していると、一人の武者が現れ敵を蹴散らした。
難を逃れた信高は、この武者が自分の妻だと知り、感激しつつ二人仲良く城に戻ったという。
彼女は宇喜多忠家の娘と伝わるが、残念ながら名はわからない(常山紀談)。
【鯰尾形兜】
桃山時代の武将にとって、鯰は地震を起こすという俗信から、
敵の心を揺るがす武勇を発揮するための縁起担ぎとして、
尾を象った意匠が蒲生氏郷や堀直などに好まれた。
なかでも前田利長の兜の鯰尾は長大である。
堀直寄は幼少の頃、紙や土の人形が大好きで、それ以外の物を贈っても喜ばなかった。
そして葛篭いっぱいに集めたそれらを、人目のない所で並べて合戦の真似事をしていたという。
ガンプラでも差し上げたら家老になれたかもしれない。
【笠置合戦】
笠置寺の後醍醐帝の元に参じた足助重範に兄を射倒された荒尾弥五郎は、
悔しさのあまり矢の催促をすると、足助は弓を強く引くため高紐を解いて、
二町先の荒尾の眉間へ矢を贈った。
また本性房は大岩を引っ掻いて手頃な大きさにして寄手に振舞った。
寺の本尊の磨崖仏は戦火で失われたという。
【悪源太】
『平治物語』では、待賢門合戦において、源義平が平重盛に勝負を求め、
紫宸殿の左近の桜・右近の橘の間を執拗に追い回す場面があるが、
記述の大内裏の構造は平治の乱の当時と異なると考えられ、実際にあったかは不明である。
この場面を思い出す度、義平に追従したのは騎馬武者たちだけど、
徒歩の郎従がいたとしたら大変だったろうなと思ってしまう。
【羽犬伝説】
豊臣秀吉が九州平定を目指して入国したとき、行く手を阻んだのがこの羽の生えた犬で、
秀吉はなんとか退治したが、戦いぶりがいかにも賢明だったのに感心して、
塚を建て葬ったという話と、秀吉が九州平定の折に羽の生えた犬を連れていたが
その犬が死んでしまったので塚を建てたという二通りの伝説が残っているという。
神功皇后(じんぐうこうごう)が九州へ赴いたとき、
羽白熊鷲(はじろくまわし)という背中に羽をもつ熊襲と
戦って見事に勝利したという記事が、『日本書紀』にある。
羽犬伝説とどこか似ている話である。
上杉謙信所用と伝わる、烏帽子を模した変わり兜。左に折れているのが、大将の証だとされている。
中年の謙信でも描いてみた。
【朝倉宗滴】
越前朝倉氏の歴戦の猛将で、齢80になんなんとするころまで戦い、
ついに陣中で病を発して斃れたという、まさに生涯現役の老将であった。
「武士はなんと言われようと勝つ事を専一にせよ」というのが、
彼が遺した言葉であったという。
【三子教訓状】
毛利元就は、息子の隆元・元春・隆景の三兄弟へ、家名の存続のための訓示を記した、
全長3メートルにも及ぶ手紙を送った。
これが後世『三子教訓状』と呼ばれる有名な手紙である。
【いい風呂の日(11/26):源義朝】
源義朝は、平治の乱で平清盛に敗れ、再起を図って京都を脱出、
尾張国の長田忠致の屋敷に潜伏した。
ところがここで風呂に入った時に襲撃され殺されてしまったという。
義朝の武勇を恐れた長田は、完全に丸腰になる時まで、手が出せなかったのである。
後鳥羽院
上皇が承久の乱に破れて遠流となり、隠岐に着いたときに詠んだ歌がカッコいい。
ただし、己を哀れんだ傷心の歌と解釈するべきとも言われている。
可児才蔵
小牧長久手の陣で敗れた大将の豊臣秀次は、徒歩で退却するほどの混乱ぶりであった。
そこを馬で通っていく才蔵を見るや「その馬を貸せ」と命じたところ、
才蔵は「雨の日の傘でござる」と言い捨て逃げていった、という逸話が
『小牧陣始末記』に紹介されている。
下河辺行平
行平が頼朝に献上した兜には、本来袖につける布(袖印)があった。
行平いわく、武士の本懐は先駆けであり、であるならば目の前の敵には名乗りを上げることで、
味方にはその後ろ姿で名を知らしめることができるから、
兜の後ろに印をつけるのだと語ったと『吾妻鏡』文治五年七月八日条にある。
金刺盛澄
源頼朝に従うのが遅かった盛澄は不興を買い囚人となっていたが、
秀郷流の弓術を流鏑馬で披露して免罪を請うた。
頼朝は暴れ馬で行うよう命じ、盛澄が全中で応えると、今度は更に小さい的で挑戦させられ、
それも全中すると次は的をのせた串を射よ言われ、これにも応えて赦しを得たという。
海野幸氏
北条時頼が初めて流鏑馬を披露するに及び、幸氏が指南した。
その際西行が語った極意を紹介すると、下河辺行平や愛甲季隆といった弓達者がしきりに感心したという。
この頃の彼らは結構老齢だったはずなので、
弓談義に花が咲いたのではないかと思う(『吾妻鏡』嘉禎三年7月19日条)。
北条時頼
小山の一族上杉朝村が酔って放った矢が、三浦一族が飲んでいる店に入った。
その非礼の対応が悪く大喧嘩となり鎌倉は騒然とした。
次期執権・北条経時は三浦方に駆け付けたが、弟の時頼は彼等が仲がいいのを知っていたのか
意に介さなかったので度量を称えられた。(吾妻鏡仁治二年11月29日-30日条)
武田信玄
11月3日が誕生日とのことで、さらに今年は生誕500年という記念の年だったので描きました。
竹崎季長
弘安の役では、九州北部を台風が襲った。
そのせいでモンゴル軍が誇った多数の艦船が沈み、
主だった将軍は我先にと、残った船に乗って本国へ帰ってしまった。
日本軍はそれを聞き、手柄の取り損とばかりに掃討戦に繰り出そうとしたが、
元軍と同様に船がなく、小さい船で追いかけるしかなかった。
肥後国の御家人・竹崎季長も御多分に漏れず、手柄を求めて
知り合いの船にむりやり乗りこんで戦場に向かった。
そのとき、あまりに急いでいたのか兜を忘れてしまったことに気づいて、
やむなく自身の臑当を頭に乗せて戦ったという。
その奮闘の模様が、彼が戦後に描かせた『蒙古襲来絵詞』に記録している。
松平信綱
島原の乱や慶安の変など、江戸初期の大事件の数々の解決にあたった
松平信綱は、天守が焼失した明暦の大火でも辣腕を振るい、
城中の人々の避難を促すために畳を裏返して、経路を示して誘導したという。
「知恵伊豆」の異名は、彼の明晰な頭脳と官名の伊豆守から「知恵出づ」とかけたもの。
加藤清正の虎狩り
土井利位
下総古河藩主の土井利位は、雪の結晶を観察し『雪華図説』にまとめた。
その絵が利位の官職名の大炊頭に因み「大炊模様」と称され、衣服の紋様として庶民に親しまれた。
人工雪の開発に世界で初めて成功した中谷宇吉郎は、
黒い布に雪を受け採取した雪片を黒漆器に乗せる利位の観察法を高く評価している。
源太産衣
源頼義は、勤仕する小一条院(敦明親王)から、
頼義の子の八幡太郎義家(2歳)を見たいと言われたとき、鎧を作って、
その袖に義家を乗せて見参に入ったという。胸板には天照大神と八幡大菩薩が、
両袖には藤の花が咲いている様子を威しているという(『本朝軍器考』巻九)
この鎧は平治の乱のときに源頼朝が着ていたが、
戦い破れて敗走する途次に脱ぎ捨てられたという。
おまけ
年賀状用に作ったものがもう一枚あるので追加します。
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