2017年5月28日 (日)

武蔵御嶽神社に行ってきた

今年の連休最終日に、武蔵御嶽神社を詣でて来ました。
行ってみたらとても面白かったので、漫画にしました。
興味を持たれた方は是非、実物を見に行ってみてください。


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2017年3月31日 (金)

更新が滞っていて申し訳ありません

Manekineko

色々と、なかなか形にできなくて、更新が滞ってしまっています。大変申し訳ありません。
自分のところにも、招き猫が来て、導いてくれないかなと思う今日このごろです。

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2017年1月 8日 (日)

戦国時代展に行ってきた②

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博物館入口にあった戦国時代展のパネルには大きく上記の「黒塗紺糸縅足」が写っていましたが、
小学生の男の子が「これは佐竹の…」と指差して言っていたのを見たのには驚きました。

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2016年12月23日 (金)

戦国時代展に行ってきた

あまりに更新が滞ってしまっていて、申し訳ありません。

色々あって、まだ新作の用意もできていないのですが、
それにも関らず、先日「戦国時代展」行ってきました。
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11月23日から12月25日までの前期展示では、上のイラストの尼子経久奉納の甲冑が観たくて行ってきました。梶の葉の前立てが非常にカッコ良かったです。
同じ並びには大内義隆が厳島神社に奉納した「藍韋肩赤威甲冑(あいかわかたあかおどしかっちゅう)」がありましたが、これの弦走韋(胴の部分に張られている絵のついた覆い)の龍が可愛い顔をしているのも非常に良かったです。
これら2つの甲冑は、12月25日までしか見られないので、是非この週末行かれてはいかがでしょうか。
以上、とりとめないですが、良いお年を。
 

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2016年5月21日 (土)

畠山重忠公史跡公園に行ってきた

長年、実物を見てみたいと思っていたので、この前の連休に見に行ってきましたので、漫画にして思い出を残しておこうと思いました。もうちょっと先には寄居の鉢形城、また熊谷方面には忍城の行田があるのですが、歩き疲れたので畠山氏を満喫して帰りました。

16.5.22 文字、地図を修正。

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深谷市(旧川本町)作成の「畠山重忠辞典」を参考にさせてもらいました。


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2015年1月 1日 (木)

2015年もよろしくお願いします。

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2015年は未年、未年の戦国武将を探すと、

大谷吉継(生年が1559年なら、だけど)が該当するようです

というわけで、秀吉に「百万の兵を指揮させてみたい」と言わしめた彼に

羊の大軍を与えるという趣向の年賀イラストとしました。


ムリくりだけど、どうか今年もご愛顧賜りますよう頑張りますので、

よろしくお願い申し上げます。

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2014年6月30日 (月)

片倉喜多

『独眼竜政宗』があまりにも面白かったので、妄想しました。

※2014.7.1追記…誤字・脱字等を修正しました。

※2014.7.13追記…さらに追記、および修正しました。

 

 

Kita_topimage_2 片倉喜多は、伊達政宗の乳母(養育係)である。

そして、伊達家きっての猛将・鬼庭左月を父にもち、また、政宗の知恵袋・片倉小十郎景綱の姉でもある。さらには兵書に親しみ、武道にも堪能だったといわれ、正にスーパーウーマンという印象がある。

しかし、この評価は過大すぎるような気がして、頭から信ずるのは難しい。それでも、奥州一の大名となった伊達政宗の、あまり幸福だったとはいえない幼児期において、政宗の最も近くで、最も長い時間を共に過ごしたのが彼女であった事は間違いがなく、そう考えれば、やはり彼女の功績は群を抜くと言って良いのだろう。

そのような事を思いつつ、描いてみたのが、以下の作品である。

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2014年5月29日 (木)

三方ヶ原の戦い

Ieyasu 「織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」…というように、家康は労せずして天下を得たように印象づけられる事が多いが、決してそのような事はない。

信長の唯一の同盟相手としての家康は、正に苦労の連続であった。中でも1572年の武田信玄が上洛軍を催した際は、同盟の手前、当時最強の兵団を有する信玄に、ほぼ独力で立ち向かわねばならなかったのだ。

それでもなんとか、この苦難を乗り切り、30年を経たころ、家康は自らが、信玄並みの経験値と実力を兼ね備え、もはや周りに恐れる程の敵がいないことを知り、天下に挑み、そして勝ち取ったのである。

今回は、その家康をして、最も心胆寒からしめ、かつまた、彼を大きく成長させた「三方ヶ原の戦い」を、妄想してみました。





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【お知らせ】

「犀ヶ崖の夜襲」は、紙幅の都合で割愛しました。

Tadayo

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2014年4月29日 (火)

太田道灌

Tobira



太田道灌(おおた どうかん)は室町時代末期の武将である。

関東一円をまさしく東奔西走して武名を上げたので、特に埼玉、東京、神奈川には、彼の功績を伝える銅像や史跡が多く、武蔵国は道灌で出来ている言っても過言ではないほどだ。


元々の江戸城を築いたのが彼であるということもあり、江戸の人々にもてはやされ、遂には以下のような落語まで作られ、今日もその名が衰えることはないのである。




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お後が宜しいようで。


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2014年3月29日 (土)

本多忠勝と小松殿

小品ですが。

(2014.04.08追記)

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「家康に 過ぎたるものは 二つあり 唐のかしらに 本多平八」


…唐のかしらとはヤクという動物の毛で、徳川家の武将の間では、兜の飾りに用いるのが流行っていたという(明治維新のころ、江戸城に入った官軍が、この毛が蔵の中に大量に保管されているのを発見したというのだから、徳川の侍は本当に好きだったのだろう)。


それほどの名物と並び称されるくらいの立派な武士、という事で、本多忠勝の名が出てくるわけだが、その所以となる忠勝の活躍が、次に紹介する、『一言坂の戦い』なのである。


 


 

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Inahime

忠勝が用いた槍は、トンボが穂先に止まっただけで真っ二つに斬れたので「蜻蛉切」という名がついたのも有名な話だ。



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