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長年、実物を見てみたいと思っていたので、この前の連休に見に行ってきましたので、漫画にして思い出を残しておこうと思いました。もうちょっと先には寄居の鉢形城、また熊谷方面には忍城の行田があるのですが、歩き疲れたので畠山氏を満喫して帰りました。
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2015年は未年、未年の戦国武将を探すと、
大谷吉継(生年が1559年なら、だけど)が該当するようです。
というわけで、秀吉に「百万の兵を指揮させてみたい」と言わしめた彼に
羊の大軍を与えるという趣向の年賀イラストとしました。
ムリくりだけど、どうか今年もご愛顧賜りますよう頑張りますので、
よろしくお願い申し上げます。
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『独眼竜政宗』があまりにも面白かったので、妄想しました。
※2014.7.1追記…誤字・脱字等を修正しました。
※2014.7.13追記…さらに追記、および修正しました。
片倉喜多は、伊達政宗の乳母(養育係)である。
そして、伊達家きっての猛将・鬼庭左月を父にもち、また、政宗の知恵袋・片倉小十郎景綱の姉でもある。さらには兵書に親しみ、武道にも堪能だったといわれ、正にスーパーウーマンという印象がある。
しかし、この評価は過大すぎるような気がして、頭から信ずるのは難しい。それでも、奥州一の大名となった伊達政宗の、あまり幸福だったとはいえない幼児期において、政宗の最も近くで、最も長い時間を共に過ごしたのが彼女であった事は間違いがなく、そう考えれば、やはり彼女の功績は群を抜くと言って良いのだろう。
そのような事を思いつつ、描いてみたのが、以下の作品である。
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「織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」…というように、家康は労せずして天下を得たように印象づけられる事が多いが、決してそのような事はない。
信長の唯一の同盟相手としての家康は、正に苦労の連続であった。中でも1572年の武田信玄が上洛軍を催した際は、同盟の手前、当時最強の兵団を有する信玄に、ほぼ独力で立ち向かわねばならなかったのだ。
それでもなんとか、この苦難を乗り切り、30年を経たころ、家康は自らが、信玄並みの経験値と実力を兼ね備え、もはや周りに恐れる程の敵がいないことを知り、天下に挑み、そして勝ち取ったのである。
今回は、その家康をして、最も心胆寒からしめ、かつまた、彼を大きく成長させた「三方ヶ原の戦い」を、妄想してみました。
【お知らせ】
「犀ヶ崖の夜襲」は、紙幅の都合で割愛しました。
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太田道灌(おおた どうかん)は室町時代末期の武将である。
関東一円をまさしく東奔西走して武名を上げたので、特に埼玉、東京、神奈川には、彼の功績を伝える銅像や史跡が多く、武蔵国は道灌で出来ていると言っても過言ではないほどだ。
元々の江戸城を築いたのが彼であるということもあり、江戸の人々にもてはやされ、遂には以下のような落語まで作られ、今日もその名が衰えることはないのである。
お後が宜しいようで。
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