最近描いたモノ
後鳥羽院
上皇が承久の乱に破れて遠流となり、隠岐に着いたときに詠んだ歌がカッコいい。
ただし、己を哀れんだ傷心の歌と解釈するべきとも言われている。
可児才蔵
小牧長久手の陣で敗れた大将の豊臣秀次は、徒歩で退却するほどの混乱ぶりであった。
そこを馬で通っていく才蔵を見るや「その馬を貸せ」と命じたところ、
才蔵は「雨の日の傘でござる」と言い捨て逃げていった、という逸話が
『小牧陣始末記』に紹介されている。
下河辺行平
行平が頼朝に献上した兜には、本来袖につける布(袖印)があった。
行平いわく、武士の本懐は先駆けであり、であるならば目の前の敵には名乗りを上げることで、
味方にはその後ろ姿で名を知らしめることができるから、
兜の後ろに印をつけるのだと語ったと『吾妻鏡』文治五年七月八日条にある。
金刺盛澄
源頼朝に従うのが遅かった盛澄は不興を買い囚人となっていたが、
秀郷流の弓術を流鏑馬で披露して免罪を請うた。
頼朝は暴れ馬で行うよう命じ、盛澄が全中で応えると、今度は更に小さい的で挑戦させられ、
それも全中すると次は的をのせた串を射よ言われ、これにも応えて赦しを得たという。
海野幸氏
北条時頼が初めて流鏑馬を披露するに及び、幸氏が指南した。
その際西行が語った極意を紹介すると、下河辺行平や愛甲季隆といった弓達者がしきりに感心したという。
この頃の彼らは結構老齢だったはずなので、
弓談義に花が咲いたのではないかと思う(『吾妻鏡』嘉禎三年7月19日条)。
北条時頼
小山の一族上杉朝村が酔って放った矢が、三浦一族が飲んでいる店に入った。
その非礼の対応が悪く大喧嘩となり鎌倉は騒然とした。
次期執権・北条経時は三浦方に駆け付けたが、弟の時頼は彼等が仲がいいのを知っていたのか
意に介さなかったので度量を称えられた。(吾妻鏡仁治二年11月29日-30日条)
武田信玄
11月3日が誕生日とのことで、さらに今年は生誕500年という記念の年だったので描きました。
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