最近描いたモノ
【岸和田合戦の蛸地蔵伝説】
雑賀・根来等の一揆に備えて岸和田城に赴任した中村一氏は、
彼ら一揆の来襲に苦戦したものの、勇躍奮闘の末に撃退したという。
このときの戦いのほか、岸和田城が落城の危機に瀕するときは、なぜかいつも
夥しい数のタコの大軍が押し寄せ、一揆勢を退却させたという「蛸地蔵伝説」がある。
【楠木正儀】
楠木正成の三男正儀(まさのり)は、1352年の八幡の戦いで、
楯の裏に横木を付け足して、家屋の上へ登れるように工夫して戦った。
この戦闘で幕府軍の細川頼春が鑓で咽喉を衝かれて討死したという
(吉野殿与相公羽林御和睦事付住吉松折事)。
父譲りの戦術家と言える智将で、何度も南朝軍の京都奪還作戦を成功させている
(その都度、京都占領を維持できていないともいえる)。
そのうち南北合一の政治活動に専念するうち、状況によって北朝方に寝返ったり、
再び南朝に帰参したために、一本気な父や兄と比較されて
「心少し延びたる者(優柔不断の意)」と評せられている。
しかしながら、60年続いた不毛な紛争状態の解決を目指したことは、
史上の誰よりも勇敢ではないだろうか。
【土岐悪五郎】
大力で、打ち物とっての戦の達者の悪五郎は、水色の笠印のある兜に卯の花威の鎧を着て、
楠木・和田の守る山を、猪のように猛然と駆け上がると、にっこりと笑ったと記されている。
(太平記・巻三十一「八幡合戦事附官軍夜討事」)。
大胆不敵な記述で面白いが、残念ながらこの戦いで討死してしまった。
それというのも、矢疵を受けた仲間が自害を決めたにも関わらずそれを制止して、
背負って退却する途中、誤ってぬかるみにハマって身動きできないところを
殺されたという経緯であった。悪五郎という名前からはイメージが異なる好漢ぶりである。
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