最近描いたモノ
北畠親房と顕家
北畠顕家は、元弘元年に「陵王」を舞い、後醍醐天皇の御覧にあずかり、
以後重用された。父の親房は「神皇正統記」を著すなどして
後醍醐死後の南朝の精神的支柱として君臨した。
以後重用された。父の親房は「神皇正統記」を著すなどして
後醍醐死後の南朝の精神的支柱として君臨した。

犬童頼安
島津氏の将の新納忠元が水俣城を攻めた折、籠城する犬童頼安にむけ
「秋風に水(皆)俣落つる木の葉哉」と、落城の意を込めた矢文を送った。
対して頼安は「寄手は沈む浦波の月(月の浦波とも)」と記した返し矢を送り、
そちらこそ気を付けろと応酬したという。

少弐資時
元軍が上陸し、いよいよと見た日本軍は、少弐資時に開戦の合図の矢を射させた。
射手に選ばれるのは名誉であり、初陣でもありして、感動的場面であったが、
元軍は銅鑼を鳴らしてドッと笑い、日本の馬は驚き、兵は茫然となった(八幡愚童記)。
武士が異文化と接した瞬間の記録ともいえる。

松平信道
1788年の天明の大火の際、京都火消役の火消当番だった丹波亀山藩主・松平信道は、
二条城本丸こそ焼失したものの、二ノ丸御殿の消防に成功、次いで京都御所へ急行する。
禁裏は下馬が原則だったが、信道は下乗札に羽織をかけて押し通り帝の避難に尽力。
これが大評判になり、以後緊急時は下馬不要の先例となった。
また、この後に彼は、寛政の改革で松平定信の抜擢を受けて、改革チームに参画した。
「秋風に水(皆)俣落つる木の葉哉」と、落城の意を込めた矢文を送った。
対して頼安は「寄手は沈む浦波の月(月の浦波とも)」と記した返し矢を送り、
そちらこそ気を付けろと応酬したという。

少弐資時
元軍が上陸し、いよいよと見た日本軍は、少弐資時に開戦の合図の矢を射させた。
射手に選ばれるのは名誉であり、初陣でもありして、感動的場面であったが、
元軍は銅鑼を鳴らしてドッと笑い、日本の馬は驚き、兵は茫然となった(八幡愚童記)。
武士が異文化と接した瞬間の記録ともいえる。

松平信道
1788年の天明の大火の際、京都火消役の火消当番だった丹波亀山藩主・松平信道は、
二条城本丸こそ焼失したものの、二ノ丸御殿の消防に成功、次いで京都御所へ急行する。
禁裏は下馬が原則だったが、信道は下乗札に羽織をかけて押し通り帝の避難に尽力。
これが大評判になり、以後緊急時は下馬不要の先例となった。
また、この後に彼は、寛政の改革で松平定信の抜擢を受けて、改革チームに参画した。
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