最近描いたモノ
篠塚伊賀守と伊賀局親子
堀端の橋を撤去して、籠城している足利勢に対し、
篠塚は傍らの大卒塔婆を引き抜き橋替わりにして切り込んだという。
娘の伊賀局は、高師直軍から逃げる途中、橋が壊れていたので、
松や桜を折って渡し、無事賀名生へ落ち延びた。同じような逸話を持つ親子である。
佐々木盛綱と高綱兄弟
佐々木高綱は、梶原景季と宇治川で先陣争いをした時、
景季に「馬の腹帯が緩んでるぞ」と騙して先行、
川底に張られた綱を切りながら進み一番乗りとなった(平家物語巻九)。
兄の盛綱は、藤戸の戦いで現地の漁師に浅瀬の場所を聞き出すと、
口止めに斬って戦功を上げた(平家物語巻十)。似た者兄弟。
軍記物語に真面目になっても仕方ないのだけど、当時の武士らしい武勇譚とはいえ、
宇治川の方の梶原景季は、高綱の注意に従うし、先を越されても
「川底には綱が張ってあるから、馬の脚を取られないように気を付けろ」
と忠告した景季のほうが絶対良い奴だと思う。だから失脚しちゃったのかもしれないけど。
梶原景季
生田の森の戦いで、梶原景季と父景時は、敵陣深く斬り込んだ弟景高を救出した。
すると今度は景季が危機に陥ったので、景時は再び突撃して景季を救った(平家物語巻九「二度之懸」)。
源平盛衰記では、景季はこの時、箙に梅の枝を挟んで奮戦し、平家の公達から称賛されたという。
畑六郎左衛門
足利方の大軍勢に囲まれた鷹巣城に籠る畑時能は、夜になると愛犬の犬獅子を敵陣に忍び込ませた。
犬獅子は、警備が厳重な場合は吠え、油断していれば尾を振るのを合図として、夜襲をかけて
散々に悩ませた。敵も根負けし、酒肴を与えて退散してもらったという(太平記巻22)
山田長政
関ケ原合戦で乱世の終焉を感じ、一旗揚げるべくシャム(現タイ王国)のアユタヤへ渡り出世した。
国王に重用されだが、それ故に王朝の政争に巻き込まれ暗殺されたという。
長政が当地にいた日本人武士を率いて義勇兵として活躍したからか、日本刀は王朝の重宝として珍重された。
| 固定リンク
コメント
山田さんは駿府出身らしくて、浅間神社へ続く商店街の一角に顕彰碑が建っています。十返舎先生も駿府だったと思います。こちらは駿府城のお堀沿いの遊歩道に弥次喜多二人組の銅像が建っています。
投稿: bad.Ⅳh-95 | 2020年7月 4日 (土) 08時35分