松山城
先日、旅行で松山城を訪ねたら、とても良かったので、その勢いで漫画を作りました。
…以上、自分が行って見てきて、調べて、面白いと思った所を描いているだけですので、
詳しいことは松山城のHPなどをご覧になって下さい。
<武将FILE>
加藤嘉明(かとう よしあき)
「賤ヶ岳の七本鎗」の一人で、豊臣秀吉子飼いの武将として知られる。生国は三河で、父・教明は徳川家康の家臣という家柄だったが、1563年(嘉明の生年)の三河一向一揆の時に、教明が家康に背いたため、一族は没落してしまった。流浪の末、教明は、近江で秀吉に仕えると、その後程なくして嘉明も、秀吉の小姓となった。それが1575年頃であったから、実に10年以上を貧窮の内に過ごしたことになる。そんな苦労があったためか、「沈勇の士」と称せられるほど、冷静さと豪胆さを兼ね備えた武将に成長した。朝鮮の役の頃、捕まえた虎を、鎖でつないで引き回した者がおり、そのため陣中大騒ぎとなったが、嘉明は、虎が横を通りすぎても構わず、居眠りをしていたという。朝鮮では主に水軍を指揮して武功があり、伊予松前(まさき)十万石に封ぜられた。
関ヶ原の合戦では、早くから親家康の態度を表明して東軍に属し、最前線で敵主力の小西勢、宇喜多勢と激闘を繰り広げた。西軍が崩れた時、追い打ちをかけるべく東軍諸将が陣形を乱して敗走兵を狙う中、嘉明の隊だけは全く陣形を乱すことなく整然としていた。それを見た家康は、嘉明の沈着ぶりに感嘆したという逸話がある。
以後家康の信任を得、知行を二十万石に倍増され、松山城の建築を開始した。工事に励むこと26年、ようやく完成かと思われた頃、突然会津へ転封が決定する。会津は北国に対する防衛の要として、幕府が特に重視した土地であるから、大抜擢ではあったが、齢65を迎えた嘉明には、心血を注いだ松山城の完成を見ずに伊予を去らねばならぬ事などから、辛い栄転であったようだ。転封から4年後に没した。
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コメント
>bad.Ⅳh-95様
コメントありがとうございます。
幕府に慮って…という理由であっても、嘉明の無念いかばかりか、という感じですね。
色々と勿体無いと思います。
投稿: 作者 | 2013年7月30日 (火) 21時57分
>維持費が高い
そりゃ、取り敢えず太平の世になったらそんな感覚でしょうけど・・・
ジミー・加藤さん、泉下で聞いちゃったんじゃないんですか?
そんなに失火に見舞われるなんて。
投稿: bad.Ⅳh-95 | 2013年7月30日 (火) 21時21分
>masa1585様
コメントありがとうございます。あまりページがなくてすみませんでした。
自分ももっと色々とめぐってみたいものです。
投稿: 作者 | 2013年7月30日 (火) 19時23分
時間が取れましたので、熟読させて頂きました。
旅に出たくなりました。
投稿: masa1585 | 2013年7月30日 (火) 15時53分