歴史魂vol.9「島津家久(下)」予告

【お知らせ】
単行本所収作のうち、ブログで発表した作品を一部復活させました。
佐竹義重(2012.03.07)
武田四名(2012.04.06)
竹中半兵衛(2012.05.07)
伊達輝宗(2012.06.09)
片倉景綱(2012/08/26)
こちらもよろしくおねがいします。
<武将FILE>
島津義久(しまづ よしひさ)
島津氏第16代当主。四兄弟の長男で、末弟の家久とは14才も離れている。早くから父の貴久に従って、「薩隅日、三州の太守の器量、自ずから備わる」と評される程に英明な人物だったという。貴久没後は島津一族の長として弟と家臣を統率して、九州をほぼ全て征圧した。しかし大友氏との決戦となった耳川の戦いの時は、開戦前に悪夢にうなされるなど、やはりリーダーとしてのプレッシャーには悩ませれたようだ。秀吉に降伏した後は、主に薩摩本国の統治に腐心して、中央の折衝は次弟・義弘が担う二殿体制を敷いた。そのための軋轢が家中に不安を招く事しばしばであったが、徳川家康と会見した時、「島津の躍進は私の手柄ではなく、全て弟や家来の奮闘のおかげです」と語ったのが、最終的には大事にいたらず、島津家が江戸時代でも存続し得た事の証明かもしれない。

島津貴久の三男。岩剣城合戦の初陣から、個人としての戦歴も華々しいものがあるが、多くは長兄・義久の帷幕にあって、作戦参謀的役割を担った。義久も重用して、薩摩国内を居城に当てて身近に置き続けた。秀吉の九州侵攻に対しては早くから降伏を主張したという(逆に徹底抗戦を説いたというもある)。しかし降伏後、歳久の手のものが、秀吉の乗る駕籠に向けて矢を放つという事件が起こり、以後は反秀吉から起きた梅北一揆の責任を追う形で自害したという。この一連は「始終の利害を察するの智計並びなし」という彼に対する評価とは、あまりにかけ離れた失態であった。 日新斎の号で有名。彼の生まれた頃、島津氏は四つの分家がそれぞれ反目しあう状態で、薩摩国は分断されていた。忠良はその分家の一つ、伊作島津家の出身だった。幼児期に父が斃れると、実母の梅窓婦人は相州家・島津運久に再嫁したのを契機に、忠良は分家を懐柔して統合するよう画策、最終的には島津宗家に息子の貴久を送り、一族を統一させた。そのため「島津の聖君」と呼ばれる中興の祖となった。義久ら兄弟の評や、「いろは歌」を遺したというが、上記の偉業から来る神聖視があらゆる起源を忠良に求めている向きもあるようだ。しかしこうして薩摩武士の愛するアイコンとなったためか、以来島津氏は「暗君なし」とまで言われる治世を続け、明治に至るのである。
時代下って幕末の頃、西郷隆盛が月照と共に身投げして自害しようとしたとき、歳久の没した土地に向かって合掌したという。薩摩武士にとって、主君に尽くした忠義を称えたのだろうが、中央政権にあくまで反抗した精神を称えたのかもしれない。
島津忠良(しまづ ただよし)
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コメント
>bad.Ⅳh-95様
制作陣の努力や熱量、演者の好演と、見所は多いと思います。
ドラマとしてはとても面白いと思います。
…これ以上、大河ドラマについて私から何か言う事はありませんが…。
>2012年10月 9日 (火) 17時22分のお方様
コメントありがとうございます。私も兄弟の仲は良かったのだと思っています。
お互い認め合っていたから、沖田畷に家久を派遣したのだという感じです。
これからも活動は続けていくつもりですので、よろしくお願いします。
投稿: 作者 | 2012年10月10日 (水) 19時09分
いつも楽しく拝見させていただいております。
島津4兄弟は個人的な考え方ですが非常に仲が良かった気がしてます。
兄をたて、弟をたて劣勢に立たされながらも勝ち進んだ島津家
野心家ではあったかもしれませんが「家を守るため」という側面も当然あると思いますし
ともかく自分が大好きな島津氏が取り上げられて嬉しいです。
今後も更新楽しく待たせて頂きます!
投稿: | 2012年10月 9日 (火) 17時22分
平清盛=平家物語という短絡思考のお陰で視聴率がショートしている大河です。
しかし、保元・平治物語をちゃんとやっているのに…
投稿: bad.Ⅳh-95 | 2012年10月 8日 (月) 20時19分