2020年9月 8日 (火)

最近描いたモノ

Kounomichiari_200801

河野の後築地

弘安の役に出陣した河野通有は、元軍の襲来に備えて築かれた防塁の石垣を背にして、
浜辺に陣取り決死の覚悟を示し、そして勇猛果敢に戦ったという(予章記)。






Ikaritomomori2020_0809

平知盛

平知盛は、壇ノ浦の戦いでの敗北が決定的になると、船の上を掃除し、
鎧を二領着て海に飛び込んだとも、碇を抱えて身を投げたともい言われる。
平家軍の総帥・平宗盛も、海に飛び込んだが、泳ぎが上手くて沈むことができず、
源氏方に生け捕られた(平家物語)。





Ohshimamitsuyoshi_200829
大島光義

大島光義は、13歳の初陣以来、弓での功名は数知れない武辺者で、
齢80になんなんとした頃、豊臣秀次の命で八坂の塔の窓へ、
10本の矢を射込んだほど健在であったらしい(寛政重修諸家譜)。
気力はなおも衰えることなく、97歳の長寿を保った。



Watanabesatoru_200906
渡辺勘兵衛


数々の武功で知られる。
山中城攻防戦では、城兵の間隙を衝いて三の丸に侵入、敵と入り乱れて二の丸へも潜入に成功、
遂に本丸にたどり着き一番乗りを果たしたという(渡辺勘兵衛武功覚書)。
途中で同僚が何人も負傷・戦死しているので、短時日の落城とはいえ相当な激闘だったようだ。

兜と背中の指物は、『渡辺勘兵衛(推庵)遺像裏書』というのにあったものを
参考にした(国会図書館オンラインで閲覧可)。網代模様の覆いのある「加升兜」というものらしい。
こんな指物もしてない気がするけど、特別の工夫をしてたとか本人が言っているので、
案外『裏書』通りなのかも…と思った。




最後に、夏らしく妖怪話。
Tamonmaru001


Tamonmaru002




Tamonmaru003



 



Tamonmaru004
楠木正行は、多門丸と呼ばれた少年の頃、妖怪(古狸)を倒した伝説がある。
〈注〉画像の漫画は、国文学研究資料館蔵『楠正行戰功圖會』を参考にして、

クリエイティブ・コモンズ表示4.0ライセンス CC BY-SA
(https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja)の下、創作しました。



 

 

 

| | コメント (0)

2020年7月25日 (土)

最近描いたモノ


Kitabatakefamily_200704

北畠親房と顕家

北畠顕家は、元弘元年に「陵王」を舞い、後醍醐天皇の御覧にあずかり、
以後重用された。父の親房は「神皇正統記」を著すなどして
後醍醐死後の南朝の精神的支柱として君臨した。



Indouyoriyasu_200711

犬童頼安

島津氏の将の新納忠元が水俣城を攻めた折、籠城する犬童頼安にむけ
「秋風に水(皆)俣落つる木の葉哉」と、落城の意を込めた矢文を送った。
対して頼安は「寄手は沈む浦波の月(月の浦波とも)」と記した返し矢を送り、
そちらこそ気を付けろと応酬したという。



Syounisuketoki_200718

少弐資時

元軍が上陸し、いよいよと見た日本軍は、少弐資時に開戦の合図の矢を射させた。
射手に選ばれるのは名誉であり、初陣でもありして、感動的場面であったが、
元軍は銅鑼を鳴らしてドッと笑い、日本の馬は驚き、兵は茫然となった(八幡愚童記)。
武士が異文化と接した瞬間の記録ともいえる。




Matsudairanobumichi_200724

松平信道

1788年の天明の大火の際、京都火消役の火消当番だった丹波亀山藩主・松平信道は、
二条城本丸こそ焼失したものの、二ノ丸御殿の消防に成功、次いで京都御所へ急行する。
禁裏は下馬が原則だったが、信道は下乗札に羽織をかけて押し通り帝の避難に尽力。
これが大評判になり、以後緊急時は下馬不要の先例となった。
また、この後に彼は、寛政の改革で松平定信の抜擢を受けて、改革チームに参画した。







 

 

| | コメント (0)

2020年6月27日 (土)

最近描いたモノ

Igapapa_200531



Igadaughter_200531

篠塚伊賀守と伊賀局親子

堀端の橋を撤去して、籠城している足利勢に対し、
篠塚は傍らの大卒塔婆を引き抜き橋替わりにして切り込んだという。
娘の伊賀局は、高師直軍から逃げる途中、橋が壊れていたので、
松や桜を折って渡し、無事賀名生へ落ち延びた。同じような逸話を持つ親子である。






Sasakibros_200606
佐々木盛綱と高綱兄弟
佐々木高綱は、梶原景季と宇治川で先陣争いをした時、
景季に「馬の腹帯が緩んでるぞ」と騙して先行、
川底に張られた綱を切りながら進み一番乗りとなった(平家物語巻九)。
兄の盛綱は、藤戸の戦いで現地の漁師に浅瀬の場所を聞き出すと、
口止めに斬って戦功を上げた(平家物語巻十)。似た者兄弟。
軍記物語に真面目になっても仕方ないのだけど、当時の武士らしい武勇譚とはいえ、
宇治川の方の梶原景季は、高綱の注意に従うし、先を越されても
「川底には綱が張ってあるから、馬の脚を取られないように気を付けろ」
と忠告した景季のほうが絶対良い奴だと思う。だから失脚しちゃったのかもしれないけど。



Gentakagesue_200614

梶原景季
生田の森の戦いで、梶原景季と父景時は、敵陣深く斬り込んだ弟景高を救出した。
すると今度は景季が危機に陥ったので、景時は再び突撃して景季を救った(平家物語巻九「二度之懸」)。
源平盛衰記では、景季はこの時、箙に梅の枝を挟んで奮戦し、平家の公達から称賛されたという。






Hatatokiyoshi_200620

畑六郎左衛門
足利方の大軍勢に囲まれた鷹巣城に籠る畑時能は、夜になると愛犬の犬獅子を敵陣に忍び込ませた。
犬獅子は、警備が厳重な場合は吠え、油断していれば尾を振るのを合図として、夜襲をかけて
散々に悩ませた。敵も根負けし、酒肴を与えて退散してもらったという(太平記巻22)






Yamadanagamasa_200627

山田長政
関ケ原合戦で乱世の終焉を感じ、一旗揚げるべくシャム(現タイ王国)のアユタヤへ渡り出世した。
国王に重用されだが、それ故に王朝の政争に巻き込まれ暗殺されたという。
長政が当地にいた日本人武士を率いて義勇兵として活躍したからか、日本刀は王朝の重宝として珍重された。







| | コメント (1)

«最近描いたモノ